「私とは何か」から学ぶ生きやすくなる「分人」思考

こんにちは、ストラボ代表の小木曽です。

知り合いがお勧めしていた平野啓一郎さんの「私とは何か」という本を読みました。結論からいうと理解が難しい内容だったけれど、個人的にパラダイムシフトになり得る良書でした。

ちなみに読み終わった後いつ発行されたのかと思い日付をみると2012年だった。当時はアメリカ駐在から帰ってきて日本の大学院に通っていた時。こんないい本が当時あったんだなと思うと、情報伝達コストゼロ社会におけるアンテナの張り方の重要性を改めて思い知った次第です。

本当の自分」は存在しない

この本のタイトルは「私とは何か?(個人から分人へ)」であり、冒頭では「本当の自分」なんていないよと強烈なメッセージを出しています。つまり本当の自分探しの旅をしても自分は見つからないという考えです。

深すぎる分人思考

本を読んでいて最初のうちは、TPOや相手に合わせて接し方・コミュニケーションを変えることを、「分人」という表現に置き換えているだけで、単に言葉遊びしてるだけじゃないかという安直な思いに駆られていました。

けれど、冒頭で平野さんの過去の体験における心情の記述があり、自分も共感するところがあり、自分のケースでは思春期の時、部活を中心に友達に恵まれて、友達といて楽しいけれども、どこか楽しめていない自分も時折いたなという感覚です。また、必要以上の集団行動に対して疑問をよく感じていました。←この疑問については、30半ばあたりに、自分は相対的に内向性の強い人間だということに気付き、腹落ちしました。

そのためその後の生活を通して、平野さんがどう人生に対して自分の存在意義のようなものを定義し解釈したのか、腹落ちしたのかに関心があり読み進めました。

本当の自分 / ウソの自分

では中身についてみていきましょう。まず「本当の自分/ウソの自分」という考え方に対する考察。例えば私の場合、基本的に内発的な動機のない集団行動は普通の人以上に苦痛に感じるタイプです。

例えば学校生活での分かり易い例が行事系のもの、文化祭は最たる例です。「やりたい人達が集まってやればいいのでは」と思っていた口です。起業についても、兎にも角にもみんなでスケールしようぜ!みたいなスタイルは、自分のカラーには合いません。単純に必要以上に利害関係者が増えるため、関心の外にある物事に対して必要以上に自分の時間を費やすことになるのが容易に想像できるからです。

では、本題。例えば文化祭に参加したとして、その時の表向き取り繕っている自分は「ウソ」の自分であり、一人でいる時の自分が「本当」の自分という構図なのだろうか?実際は、文化祭の時も自分という人間はそこにいたわけで、架空な存在ではないし、生のコミュニケーションがそこで発生しており、そこの当事者である私は、ウソの私ではなく、本当の私です。つまり両方とも本当の自分。

それを文化祭の自分は、偽りの自分であり、本当の自分ではないと決め打ちしてしまうと、一人でいる時の自分が本当の自分なのか?あるいは「そもそも本当の自分は?」と考えてしまい、これだと思える本当の自分を見つけるために本当の自分探しにでかけようと迷路に入り込む。この構造はいわゆる自分探しであり、今も多くの人が悩んでいることですよね。分人の考え方を理解する上で、この「本当の自分・ウソの自分」の枠組みで捉えてはいけないという点がまずひとつです。

そして「本当の自分・ウソの自分」という考え方の前提にあるのが、自分=個人とする考え方。個人は人間の最小単位でこれ以上分解できないとする単位、そして自分という存在は唯一無二の一個人、そう捉える考え方です。ゆえに、唯一無二の本当の自分とは何だろう?何をしたいのだろう?どんな存在意義あるのだろう?と悩むことになります。

個人を切り分ける分人思考

そこで分人の考え方の登場です。分人は個人を切り分けることができる前提の考え方です。先程の文化祭の自分と一人行動している自分のケースでは、私という唯一無二の本当の自分が、仮面をつけて文化祭にでてウソの自分として振る舞い、家で仮面をぬいで特定の何かをしているときに本当の自分になる、と考えるのではなく、文化祭にでているときは僕の分人Aが、家で特定の何かをしているときは分人Bが、そのどちらも本当の自分だよという考え方です。

これだけだと言葉遊びに聞こえると思いますが、この考え方がなるほどと思うのは次のような場合です。

例えばいじめや虐待を受けた人が、分人ではなく個人の考え方だと、いじめや虐待された経験がその後もずっと後をひきずることになります。自分という個人は唯一無二だからです。その唯一無二の自分が経験した以上、自分の残された人生においても、それは脳裏に焼き付き、ついてまわる消せない過去になり、様々なシーンで思考や行動を抑制するのでしょう。

それが分人の考え方では、過去に受けたのは例えば分人Aだけであり、家族や仲間との時間、趣味の時間等、自分が幸せだと感じて過ごしている分人Bを人生の中心になるべくもってくるようにできれば、なんだか気持ちが楽になる気がしないでしょうか。

私はいじめを受けたり虐待された経験がないので、こういってしまうと経験されている方に、そんな簡単なものではないとお叱りをうけるかもしれませんが、1%でも前を向く要素になるのではないかと思いました。

ビジネスで考える分人思考

ビジネスパーソンに当てはめて考えてみるとどうしょうか。力関係で不条理を押し付ける上司や取引先もなかにはいると思います。そこと対峙している間の分人も確かに存在するけれど、帰宅したあと家族と楽しく過ごしている分人もいるわけです。あるいは筋トレをして充実している分人がいる人もいるでしょう。

なので、なるべくその不条理な時以外は、それに引っ張られないように、嫌なことに対して、唯一無二の個人である自分が経験したと考えず、分人思考で捉えてみましょう。

私の場合、自分が創業者なので上司がいないためブラックなパワハラはありませんが、取引先等で割合的に30人仕事する機会があると1人位の割合で「変わった人」に遭遇している気がしなくもありません。

そんな時はひさびさが故に体感的には大きいストレスを感じるので、その場だけでなく負の感情(怒りの感情)がしばらくひきずることもあります。ストレスフリーを追求したい私にとっては、うまく自分の中で対処したいと思っていました。そこでこの分人思考はなるほどと思い、今後自分のマインドに刷り込んでいく作業をしていきたいと思いました。

分人の構成比率をフレキシブルに変える

ちなみに先ほど特定の分人を人生の中心に持ってくると書きましたが、平野さんは分人の構成比率を変えることで調整すると書いていました。実現するには自分の中で意図的に刷り込む行為を重ねる必要があるのかなと思います。

分人の半分は相手。気楽にいこう。

また他に面白かったこととして、分人は相手がいて生じるものであるため、自分とは結局のところ半分は他人が含まれている、つまり、他人の影響を大いに受けているという考え方です。

色々な人との関係で生じる分人たちすべてが本当の自分であり、その構成比率を変えることで人生のイニシアチブをとっていこう、そして自分って結局半分は良くも悪くも他人が提供しているんだよ、そう考えると、前述の不条理なシーンに遭遇していたとしても半分は自分のリアクションが悪いのは確かにあるかもなぁと反省することができ、前向きなライススタイルをプロアクティブに設計できそうな気がしないでしょうか?

また他にも、分人のステップとして社会的、グループ向け、特定の人といった切り口の説明もあり面白いです。なので哲学的な悩みを抱えている人は是非本書を読んでみてください。

考えれば考えるほどディープなので、私が書いた内容もレイヤーとしては甘いかもしれませんが、私にとっての読書は自分の人生にどう生かすことができるかに尽きると考えています、理解が甘くても少なからず大いに糧になった内容でした。またしばらく人生を歩み、ふとしたタイミングで2回目読んでみたいと思います。平野さんに感謝。