Who is Masatake Nishikawa?

小木曽

こんにちは、ストラボ代表の小木曽です。今回は、当社のクリエイティブディレクターとして空間デザインや展示会ブースデザイン、プロダクトデザインをリードする西川さんにインタビューします。私たちのCredoにおいても「AI時代だからこそ人となりを。」の考え方を大切にしています。今回は西川さんの人となりを過去の生い立ちから紐解いていきたいと思います。

クリエイティブディレクター – 西川 正剛

スウィンバーン工科大学卒。オーストラリア現地デザイン事務所にてデザイナーとして勤務後、KEYUCA(ケユカ)を運営する大手総合系インテリア企業の株式会社河淳等を経て、株式会社Strategy & Design Laboに参画。クリエイティブディレクターとして、主に空間デザイン・内装、展示会ブースデザイン、プロダクトデザインをリード。

高校を卒業後にお金を貯めて海外へ

小木曽

海外経験が豊富なデザイナーの西川さんなので、海外でのご経験を中心にルーツに迫らせて頂ければと思います。西川さんは、高校卒業後にオーストラリアに渡られていますが、なぜ海外に行くことを決めたのでしょうか?日本に残る選択肢もあったかと思います。

当時、 駅前留学が流行っていました。ある日いつも通り何気なくテレビを見ていたら、イーオンのCMで金城武さんの「英語が話せると10億人と話せる」という言葉がすごく印象的で。

西川

小木曽

確かにありましたね。懐かしい。

感覚的な部分も含めて「英語が話せると10億人と話せる」って実際にそうなると、どうなるんだろうと。どういう状態になるのかなと。好奇心が日に日に強くなっていきました。

西川

小木曽

哲学的な問いですね。

それでせっかくなら駅前留学ではなく本当に留学しようと決めたのがきっかけになります。

西川

小木曽

高校卒業して海外に行くとなると、親御さんも不安かと思いますが、そのあたりはいかがでしたか?

それもあったもしれないですね。父親がとにかく厳しくて、子供のころからテレビを見るにも毎回理由を言って納得してもらわないと見せてくれない父親でした。

西川

小木曽

・・・それは相当に厳格ですね

それくらい厳しいので、今回は日本ではなく異国の地ということもあり、
基本は自分でお金の工面をするようにと言われました。

西川

小木曽

現地での学費や生活費を考えると、さすがに一人で賄うには厳しいものがありますね。

ええ、なので先ずはお金を100万円貯めて、本気であること、そして誠意を見せようと思いました。父は厳しいですが、優しさがあるのは分かっていましたので。

西川

小木曽

高校卒業して100万円稼ぐのは、なかなか時間もかかるし、高校卒業して色々と遊びたい等の誘惑もあると思いますが、無事貯めることができましたか?

はい、和菓子屋でバイトして半年で100万円を貯めました。

西川

小木曽

有言実行、素晴らしいです。親御さんも認めて頂けたのでは?

はい、本当に良かったです。

西川

なぜオーストラリアのメルボルン?

小木曽

海外渡航に目途が付きましたが、世界には200カ国近い国があります。
どのようにして国を選びましたか?

片っ端から国別のガイドブックを購入してドッグイヤーだらけになる位に読み漁りました。

西川

小木曽

ピンとくるような国はすぐに見つかりましたか?

いや、どのガイドブックもいいことしか書かないので、どの国も魅力的で。
ただ、それ以上に問題だったのが、父親へのプレゼンです。

Nishikawa

小木曽

まだ、残っていたんですね。

ええ、お金を貯めたことで金銭面の目途は付きましたが、
どこの国に行くかも許可を取る必要があります。

西川

小木曽

もはやプレゼンの英才教育ですね。国についてはどうやって説得しましたか?

ポイントを2点に絞りました。一つ目に初志貫徹じゃないですが、そもそも目的が「英語で10億人と話せる」ですので、英語圏であること。二点目は相対的にお金がかからないこと。この2点にしました。目的を考えれば妥当でどちらも否定しようがないと思いましたので。

西川

小木曽

なるほど。

そこで最終的にオーストラリアとニュージーランドが残りました。当時は為替レートも良かったんです。ただ、ニュージーランドも安かったけど現地での生活や物価水準を加味すると、メルボルンの郊外の学校に通うことが選択できる範囲の中では一番安かったので。

西川

小木曽

確かに今でこそメルボルンも相当に物価の高い都市になっていますが、ひと昔は前はそうではなかったですよね。親御さんはご納得を?

ええ、これですべてが整いました。色々と申請等の準備して、片道切符で渡航しました。

西川

小木曽

片道切符にしたのはなぜですか?

自分の中での些細な決意表明みたいなものです。帰るためには現地で航空チケットを購入する必要があるので。当時の私からすると、それもできるか不安でしたから、生半可な気持ちで行くのはやめようと。

西川

小木曽

ある種の退路を断つじゃないですが、侍スピリットですね。素敵です。

オーストラリアでは語学学校から専門学校へ

小木曽

オーストラリアでの生活はどのように始まりましたか?

まずは、語学学校に通い始めました。
半年通った後に、家具のデザインと製作の両方を
本格的に学べる専門学校に入学しました。

西川

小木曽

家具のデザインと制作をする学科を専攻された理由は何ですか?

元々小学生のころから木工が好きでした。私の祖父が建築士の資格を持った大工の棟梁で、小さい頃によく祖父の工場に行き、木工をして遊んでいました。新聞の折り込みチラシにある建物の間取り図をみては、自分なりに図面を書いてみたり。

西川

小木曽

クリエイターのルーツですね。

図面を書いたら、この空間に何を置くといいのだろうとか、昔から妄想が好きでしたね。それで実際に作ってみようと祖父に教えてもらいながら自分で棚を作ってみたり。

西川

小木曽

昔から好きだったインテリアの空間デザインや木工をより突き詰めて学ぶ意味において、家具のデザインと制作の両方を本格的に学べる学校は西川さんにとって素敵な出会いでしたね。

はい、家具に特化している点がユニークで面白いなと。日本でも聞いたことがないので、興味を持ちました。実際に見学した時も環境がものすごい良くて。新設の校舎で機械も新しく、座学の教室と作業場が大きなガラス一枚で隔たれてて、とても素敵だなと思いました。

西川

小木曽

幼い頃から図面を書いて妄想していた西川さんにとって、まさにというレイアウトであり空間デザインだったのかもしれないですね。

現地の専門学校を卒業後に現地企業に就職

小木曽

専門学校を卒業してから現地の企業で就職されていますが、そのあたりの背景をお聞かせください。

まず、専門学校での学びがとても充実したもので、もっと突き詰めたいと学習意欲がわき、大学に行きたいと思うようになりました。けれど、専門学校での2年間の学費が終わって更に大学の学費となると、流石に金銭的に厳しいものがありました。

西川

小木曽

留学において、お金は常に付きまとう悩みですよね。どのようにして突破口を見出したのですか?

学生だからこそ学費が通常より高いので、永住権を取れば安くなると。

西川

小木曽

永住権ですか!学費を安くするために永住権取りにいくとはウルトラCですね。日本の大学でぬくぬくだらだらとしていた私が塵ように思えてきます。

それで永住権が取れる方法を調べていたら当時「家具職人」枠があり、これに合格できれば永住権が取れることが分かりました。そのため先ずは働きながら永住権を取得する方へと舵を切りました。

西川

小木曽

計画しても実行、その先の実現までかなり険しい道のりの印象を受けますが、そこからどのように物事は進んでいきましたか?

先ずは、正社員として働くために、地域コミュニティペーパーの求人案件から家具職人の仕事ができる企業を探し応募しました。面接に合格し、1ヶ月の試用期間を経て、正式採用されました。

西川

小木曽

さらっと言いますが、勇気の連続だったと察します。素晴らしいですね。
どのような企業でどのような仕事をされていたのですか?

ローカル企業でシステムキッチンメーカーでした。
当初は図面の書く仕事を中心に行い、
次第に制作も任せてもらえるようになりました。

西川

小木曽

ワーホリはじめ日本人留学生は日本食レストランであったり、現地の専門学校を卒業した人でも日系企業でしか働けない人が少なくないですが、ローカル企業で働けるマインドと実力が素晴らしいですね。最終的にどれ位働きましたか?

1年で永住権取得できましたので1年で退社して大学に進学しました。

西川

小木曽

頭の中で質問が何個も同時に出てきて若干パニックです(笑)
「え!?もう永住権取れたのですか?」というのが率直な感想です。

はい、何とか取れましたね。

西川

小木曽

1年で最高難易度といっても過言ではない永住権取得を達成した訳ですね。凄いです。それにしても現地の専門学校を卒業しているとはいえ、そんな早く永住権取れるものなのでしょうか?

働きながら資格を取るための学校にも通っていました。
本来そのコースは4年コースだけど1年で取得しました。

西川

小木曽

すいません、そんな例外あるんですか?(笑)

その家具職人の4年コースは、ディプロマベースで作られているのをシラバス等で調べ尽くして分かったんです。なので、学校に対してプレゼンしました。

西川

小木曽

繋がりましたか、プレゼンの英才教育に。ここぞとばかりにプレゼン力を発揮した訳ですね。プレゼンしている西川さんの後ろにお父様が重なって見えたと思います。

ええ、それで私は既に2年課程の専門学校卒業しているので、4年も行く必要がないと。
それで1年で試験を受けさせてくれとプレゼンし、納得してもらいました。

西川

小木曽

差分の2年ではなく、1年で受けさせてくれというのも、プレゼン力で畳みかけた感じがありますね。それで試験は1年で合格したと。

はい、その後は大学に通うためにフルタイムの仕事はやめて大学生になりました。

西川

永住権取得後にオーストラリアの大学へ

小木曽

大学はどのようにして決めましたか?

3つ選択肢がありました。モナシュ、RMIT、スウィンバーンの3つです。モナシュは5年間だったのでちょっと長すぎると思い除外、RMITは担当の方の感じが悪かったので除外、スウィンバーンは飛び級できたので最終的にスウィンバーンにしました。

西川

小木曽

大学での生活はどうでしたか?

飛び級して入ったので、同級生達からすると「スゲーやつが来たぞ」的な様子でしたが、私が全く彼らについていくことができませんでした。

西川

小木曽

直実に成果を出し続けていた西川さんにとって、オーストラリアでの初めての挫折になるでしょうか。

そうですね。彼らはスケッチも上手いし、3Dソフトも使いこなせる。
なので、毎日、申し訳ないと思いながら100枚コピー用紙を持って帰り、
家に帰って100枚ひたすらスケッチし続ける日々でした。

西川

小木曽

理想と現実のギャップが分かるとすぐに行動に移して埋めに行く姿勢が素晴らしいですね。
努力は実りましたか?

はい、最終的に一番上手くなりました。教授からも、「3Dについて分からないことがあればマサに聞け」と同級生に対して言うまでになりました。私も同級生に対しても試験の評価で ”P(Pass) is Failure”だと言っていましたね。

西川

小木曽

素晴らしいですね。登り詰めた訳ですね。同級生とも楽しそうな様子が伝わります。

大学の学費と生活費を稼ぐために大学に行きながら働く日々

小木曽

ちなみにですが、大学の学費は安くなったとはいえ、それでもそれなりの学費がかかりますし、生活費もあります。お金はどのようにして工面していましたか?

はい、お金はやはり必要で大学に通いながらも、アルバイトはする必要がありました。

西川

小木曽

どんなアルバイトをしていましたか?

最初の頃は家の近くのイタリアンレストランの厨房で働いていました。

西川

小木曽

大学は勉強も相当ハードだと思います。大学との掛け持ちは大変だったと思います。

はい、週五で働いて夜中に課題やっての毎日でした。レッドブルも毎日飲んでいました。
慢性的な睡眠不足で、ご飯もピザばかりで体に悪いし15kgも痩せてしまいましたね。

西川

小木曽

15kgはやばいですね…

はい、このままだとやばいと思ってた頃に、同級生に話したらその同級生が「うちに来なよ」と彼が働いているデザイン事務所を紹介してくれました。

西川

小木曽

デザインの仕事だと学業とのシナジーもありますし、経験にもなるので良かったのではないでしょうか?

はい、確かにそうでしたが、私が働き始めたらすぐにその紹介してくれた人が辞めてしまいました。

西川

小木曽

スケープゴートの匂いがしますね。

案の定、きつかったですね(笑)当時からその事務所がリモートでの勤務を推奨していて、夜に大学で仕事していました。私の後ろを通る同級生が私のPCのぞき込んでは「え?そんな課題あるの?」みたいな感じでよく焦っていましたね。

西川

小木曽

夜に仕事していると、差し迫った、しかもこんな高度な課題があるのかと焦ってしまう姿が浮かびます(笑)それにしても当時からリモートがあるのも興味深いですね。

大学卒業後に現地勤務を経て帰国

小木曽

大学卒業後はどうされていましたか?

大学卒業前から務めていたそのデザイン事務所に卒業後も含めて約2年働いた頃に、「18歳でオーストラリアに来て、もう26歳になるな」と思うようになり、そこで一度日本に帰国することを決めました。

西川

小木曽

気になります。帰国を決めた理由をもう少し教えて頂けますか?

大学では工業デザインを専攻していたのですが、オーストラリアは国柄、工業があまり盛んではありません。そのため工業デザインの知見や経験を存分に発揮できる環境を求めていたので、母国であり工業国でもある日本で働くことが良いのではと考え、いいタイミングだと思い帰国を決めました。

西川

小木曽

なるほどです。日本に帰ってからどのような仕事をされたのですか?

先ずは東京で自分を試してみることにしました。そこでオーストラリアで出会った昔の知人に再会し、その知人の取引先のデザイン事務所の社長に会う機会がありました。そこで、その人に「仕事していないなら手伝ってほしい」と言われて働き始めました。他にも候補があったのですが、そのデザイン事務所が大手企業の仕事を多数行っていたので、ある種その類に対する憧れも当時はあったので、よい機会だと思いそこに決めました。

西川

小木曽

オーストラリアでの出会いが日本での仕事にも繋がっている点が感慨深いですね。その後に起業されたのですか?

いえ、元々工業デザインがやりたくて帰国したので、3年働いたタイミングでそろそろ工業デザインの仕事をしようと思い、大手什器/備品のメーカーに転職しました。

西川

小木曽

そこではどのようなお仕事をされていたのですか?

量産家具の企画デザイン・設計ですね。そこで計7年勤めました。

西川

小木曽

日本のデザイン会社や大手メーカーでのご経験と、オーストラリアでの勤務経験から両者の違いで思うところはありましたか?

日本の場合は、形状やRの処理から何まで全て裏付けが要求されます。
オーストラリアでは、ぱっと見で良ければそれ以上はあまり求められない。

西川

小木曽

正解がなく一長一短であり、商慣習やその奥にある生活者の文化や消費に対する視点に起因するものなのかと思いますが、そのあたりいかがでしょうか?

そうですね、「印象」に対する価値の違いかなと思います。オーストラリアでは、ぱっと見等の「印象」も重視されていますが、日本では、「印象」が重視されていないとは思いませんが、軽視されているのかなとは思います。

西川

小木曽

売れる根拠を突き詰める日本のスタイルも、ビジネスである以上は大切な視点だと思いますが、それに偏重しているきらいがあるのかもしれないですね。使い方の意味で、ロジカルシンキングの台頭による悪しき側面なのかもしれないですね。

「グローバル人財」を目指す人たちへ

小木曽

さて、気づけばお時間も迫ってきました。オーストラリアでの留学・現地勤務経験を通じて西川さんの人となりが皆さんに伝わったかと思います。西川さんのバックグラウンドから最後に2つだけお願いします。まず、当社ではグローバル人材を増やすことが日本にとって重要だと考えていますが、これから海外を目指す人たちに西川さんのご経験からアドバイスをお願いします。

英語を学ぶことをゴールにするのもいいですが、現地でスキル等を学ぶ過程で、手段として英語を使い、結果としてスキルが身に付き、英語力も副次的についてくるスタイルの方がより現地でのQOLは良くなると思います。

西川

小木曽

それでは最後に、西川さんにとっての「グローバル人財」を一言でお願いします。

ニュートラルな人。

西川

小木曽

当社のクリエイティブ事業統括の西川さんでした。当社では一緒に働く仲間を募集しております。ご興味のある方はいつでもお気軽にご連絡ください。