「自由に生きたい」の違和感

こんにちは、ストラボ代表の小木曽です。

人間だれしも「自由に働き、自由に生きたい?」と聞かれれば、そりゃそうだよねと答えると思います。自由の対象次第ですが、例えば好きな時、好きな場所で働けるのであれば、朝の満員電車に乗る必要もありません。仕事疲れの中、また帰りの満員電車に乗る必要もありません。「悩みの8割は人間関係」と言われるように硬直的な職場でのストレスの温床である不条理な上司もいません、あるいは視界に映りません。

家族やこども、知人との時間も空いた時間での対応ではなく、プロアクティブかつ健全にスケジュールに組み込むことも可能といえば可能です。また起業すれば、目的とスキル次第ではやりたいことだけを仕事にすることも可能です。

「好きなお客さんとだけ働く」であれば、不条理な所謂モンスターカスタマーの取引先やお客さんは勿論、新規でもこの会社、この人とはモラル的に微妙だから仕事をしたくないなと思えば、契約前であれば契約する必要はありませんし、契約後に相手のモラルが一線を超える場合については、見極めが重要ですが断ることも可能です。反対に、この会社、この人に価値提供したい!と思えば、プロアクティブな意思決定なので結果的にサービス品質も上がり、CSも向上する可能性が高いでしょう。

企業勤めの場合だと自分の判断で会社の売上を消滅させることは、よほど明確な理由がない限り、また理解のある上司でない限り、流石に厳しく一存では決められません。そのため自由に働き、自由に生きるとはそれらの視点においてメリットがありそうです。

私自身も自由に生きたいという思いがあったので、起業して今に至り、その観点においては好きなことをやりながら一定の自由のメリットを享受できています。一方で前々からこの「自由に生きる」という言葉はなんとなく言葉に出すのがどうなのかなとモヤっとした感じがありました。

時折、この「自由に生きる」というフレーズにおける違和感に対して考えていました。そこで自分の経験、文脈前提ですが、自分なりに何となく分かってきたので、とりとめなく書いてみたいと思います。誰かしらの、また将来のキャリアについて悩んでいる人の何かしらの参考になれば幸いです。

「自由に生きる」と「自分勝手に生きる」

まず、率直に「自由に生きる」とは、周りの人や利害関係者とコンセンサスが取れていない場合、見方によっては、ともすれば「自分勝手に生きる」となりかねません。

そこで改めて考えると、人間はソーシャルアニマルのなので社会の中で生きることが大前提です。その意味では、「自由とは、人に迷惑をかけない範囲で、自由に生きること」が前提と言えます。これは昔小学校か中学校で教わったなぁと改めて思い出しました。

例えばですが、自由に生きたいからと起業してみて、家族がいるのに家計が火の車では、もはやそれは自由ではなく自分勝手(のフェーズ)といえるでしょう。これまたよくいわれる話ですが、「自由と責任はセット」ということ。これも当然ですね。

つまり、「自由に生きたいけれど、責任は負いたくない」あるいは「自由を求めるけど、リスクは負いたくない」という人は、結果的に手持ちのカードの中に「自由に生きる」というカードはありません(親が政治家や金持ちでない限りは)。

このあたりは、時折耳にするけれど、当たり前過ぎてその時々は「そりゃそうだよね」で終わり、かえって頭に残らない類の言葉なのかなと思いますが、個人的にはグッと腹落ちしました。

いずれにしても、「自由に生きる」と「自分勝手に生きる」は、「他人に迷惑をかけていないこと」及び「責任が伴うこと」の違いがあり、この2つは社会的動物が自由に生きるための前提であるといえます。

自分なりの自由

次に冒頭で触れましたが、自由に生きるといっても、そもそも何の自由なのか、何に対する自由なのかと考えると無限に出てきます。そこで自分にとっての「自由」とは何だろうかと考えた場合に、私にとっては3つありました。それらは「選択の自由」「学習の自由」「表現の自由」です。

「選択の自由」

私にとっての選択の自由とは「強制されないこと」がベースにあります。

例えばですが、人間だれしも「それおかしくない?」「え?それやらなきゃいけないの??」という経験を何度もしていると思います。学校や会社、病院、役所、枚挙に暇がないと思います。

私も同じです。なので、不条理や同調圧力、非論理的な根拠等「真っ当な理由がなく、かつ自分がそれを求めていないこと」に対して強制されずに、その状況下で主体的に選択できる自由、それが私にとっての選択の自由です。

昔から隣習え的発想や意味のない集団行動に違和感を感じるタイプの人間であり、マイルドな所でいえば、例えば義務教育での授業における、「起立ー気を付けー礼ー着席」はずっと昔から違和感があり、なんでこんなピエロみたいなことやらされなきゃいけないんだと思っていました。

整理すると私にとっての「選択の自由」とは次のことです。

・「他人に迷惑をかけず、かつ責任が伴う」前提を理解した上で、
・「真っ当な理由がなく、かつ自分がそれを求めていない」場合には
Noというカードを普通に切れること

自由に働き、自由に生きることを継続させることは難しい

そう考えると社会人において「自由に働き、自由に生きる」ことを継続させることは、最終意思決定権が自分にあり、かつ生計を立てる力、ざっくり言えば「稼ぐ力」がないと成立させることが難しいと分かります。

最終的な意思決定権が自分にない場合、当然に自分がNoといっても、結果的にNoとならない場合があります。つまり構造としては主従関係のうち「従」に自分が位置する環境ではハードルが高いです。

そして、稼ぐ力がないと家族に迷惑をかけてしまう。稼げない代償(責任)として生活が成り立たない。稼ぐ力がないので背に腹は代えられず、仕事を選べない、その結果、確率論的に不条理等の我慢を余儀なくされる(方向に流される)。資本主義社会の怖さです。

「他人に迷惑をかけない」にどこまで真摯に向き合えるか

また「稼ぐ力」はあくまで、社会人にとって自由に生きるための前提であり、「他人に迷惑をかけない」ことに対して人間の器が試されるといえます。その意味するところは、法律を犯さないことは当たり前として、例えば起業したての時は得てしてお金がないものです。そのため大なり小なり家族が犠牲になるケースは少なくありません。

また、経営が比較的安定したとしても、会社勤めの時よりも業務範囲は広く、終身雇用もないため、少し無理して仕事をしてしまう、また、好きだからこそ、逆に長く仕事をしてしまうケースもあるでしょう。

その場合に家族との時間に影響を与えます。私の場合にもあてはまりますが、家族全員が満足いくレベルまで両立できて初めて「自由に働き、自由に生きている」と言えるのかなと思いました。

「学習の自由」と「表現の自由」

さて、もう2つある私にとっての自由、即ち「学習の自由」と「表現の自由」についてです。私にとって楽しいワクワクする時間のひとつとして本屋にいる時間があります。週4回位本屋にきますが、日々入れ替わり、新しい様々な本との出会いがワクワクして、本を読めば必ず何かしらをそこから学べる「本の価値」に魅了されています。

それ位に何かを学ぶことが好きで、定型業務以外は基本なんでも自分でやってみたいという性格です。そのため、例えば仕事で外注してもいいことでも、自分で学習してやることが多いです。それは単に好きだからであり、趣味の領域です。

また、もうひとつの理由として、二つ目の「表現の自由」にかかわるのですが、学習が表現の幅を広げるからです。学習による成長の喜びと表現の幅の広がりは自由に生きる上での私の必要不可欠な要素といえます。

皆さんの自由とは何ですか?

なにがともあれ責任ある自由を追求していきたいですね。私が最も尊敬するB’zの稲葉さんによる「赤い河」という曲の最後の歌詞を引用して締めくくります。

限られた自由を叫びまくろう。

B’z | 赤い河
ちなみに、この赤い河はスケール感が半端ないです。悶々としている人に最高の曲です。是非聴いてみて下さい。尚、イントロが1分あるのでご認識を。